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当山は白雉二年(六五一年)天竺より紫雲に乗り渡来したとされる法道仙人によって開かれました。ご本尊には薬師瑠璃光如来を奉祀しています。

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この法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、当山もその修行の聖地として開かれました。
眼のあたりに秀峰有馬富士を見、南には六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島までを一望におさめる絶景の聖地です。
後に西国三十三カ所観音霊場中興の祖である人皇第六十五代花山法皇(花山天皇)には、当山がことさらその御感に召され、寛弘五年(一00八年)御年四十一才で御崩御なされるまで、ここで仏道修行に励まれました。
なお法皇のご遺体は、弟子たちがその御遺 詔に従い当時の桜本坊の北に葬りました。今の花山院御廟所がそれです。以来当山は花山法皇(花山院)の菩提を弔うお寺として花山院菩提寺を寺号とするに至りました。 |
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花山法皇殿には、法皇が帰依された十一面観音像、花山法皇像、弘法大師像が奉祀されています。 |
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花山法皇は西国三十三カ所各霊場のご詠歌のすべてがその御製であることでも示されるように、観音霊場巡礼信仰の礎を作られた人といえます。それゆえ後世の巡礼者からは西国三十三カ所観音霊場中興の祖、また巡礼の開祖と崇められました。それゆえ、西国三十三カ所を巡礼する人達は、花山法皇のご浄行に敬意を表すと共に、巡礼の開祖の花山法皇にお縋りして自らの巡礼も無魔成就するように願って当山へ参詣することは、巡礼者としてけっして欠くことの出来ぬ決め事となったのです。 |
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| そのような訳で西国観音霊場を巡礼する人達が、薬師如来を奉祀するこのお山に必ず参詣されるようになって、西国三十三観音霊場巡礼の道に於いて、観音霊場以外に巡礼者が必ず参詣する霊場、即ち番号外の霊場が出来たのです。 |
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さてこの花山天皇の生涯をひもとけば、即位中での法皇の優しい心、その優しさゆえに権謀術策を受けて騙されての退位、その後の行状、そして佛眼上人との出会い、真の仏法帰依、そのあと西国三十三観音霊場を中興、それにより巡礼信仰の礎を作り上げた聖者として一千年以上の時を経たいまも巡礼者から尊崇を受ける存在となられたのです。この波瀾万丈な人生から私たちはいろんな学びを受けることができます。 |
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悲運ともいえる退位、その帝への深き思いをもって法皇を慕い来た女官達の墓が麓にあり、村人が手篤くお守りしています。また山上の法皇に思いを馳せながら女官達が琴を弾いたとされる場所には「琴弾坂」の地名が付けられています。また麓の村はこの女官達が尼僧となって生涯を送ったゆえに、地名を尼寺(にんじ)地区と呼んでいます。この史話もまた一つ私たちの心を打つものです。 |
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ご詠歌に出てくる「小野」という地名の村には、花山天皇よりはるか昔に、土地の豪族の美しき姫と中大兄皇子、中臣鎌足まつわる悲話がのこっております。そしてその姫の悲しい話をお知りになった花山法皇が、その姫の供養の為に仏像を彫られた事が史話として残っています。
これら当山の歴史、花山天皇の生涯、十二人の女官の話、中大兄皇子と豪族の姫との悲話などの詳細は「当山縁起書」に記しています。 |
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